何か一つくらい、大きなことを成し遂げてみたいと思う。
英語でTOEIC満点を取ってみるとか、お絵描きで神絵師になるとか、人気YouTuberになってみるとか、バ美肉(バーチャル美少女受肉=バーチャルライバーのアバターを入手すること)してみるとか。
Adoさんみたいに歌えるようになりたいとか、K-POPアイドルみたいに綺麗になりたいとか、踊ってみたいとか。すごい小説やコラムを書いて、文筆業で食っていきたいとか。
いつも何かに憧れて、何かになりたいと思う。思うだけで、これといった本気のアクションは起こさないのだけれど(英会話教室に通ったり絵の練習をしたり、こうやってブログを書いてみたりはするよ、魂をささげるほど全力には……なりきれていないのだけど)
マザーグースはこう書きました。
女の子って何で出来てる?
お砂糖とスパイスといろんなステキ
女の子って、それらで出来てる。
私の場合、ワナビー精神それひとつでできていると言っても過言ではない。いや、さすがにちょっと過言かも?
で、一時期はね、そんなワナビー精神満々の自分がちょっと恥ずかしいような気がしていました。
言うなれば思春期~モラトリアム期前後の、大言壮語な夢と現実のギャップに気が付き始め、初めて虚無感・やるせなさと恥ずかしさに襲われ、「○○なんて恥ずかしい」「どうせできっこない」と心の扉を閉じるようなあれ。そんな乾いた感情が、私の心にも芽生えてきたのです。
本当は絵を描きたいはずなのに……別に芸大に行くわけじゃないのに? イラストレーターにはなれないのに? と自分自身を突き放して肩を竦める。
ブロガーとかインフルエンサーとかに憧れているのに……今更始めても遅いよね? どうせ誰も注目しないよ? などとやりもしない内から、やらない理由を探している。
高校の恩師が、このようなことを言っていました。「正義なき者は正義を笑い、愛なき者は愛を笑う」と。今では本当に大好きな言葉で、私自身を生きる上での絶対的な指標となってすらいます。
当時。その言葉に感銘を受ける一方で、私が私自身の夢や目標に対して冷笑的な態度になることは止められませんでした。それは、私が夢を失いつつあったからなのでしょう。あの幼少期特有の誰もが抱く万能感。それが心底宛てにならないものだと気付き、ふてくされ、現実と理想の間にある底なしの谷に、自分自身を突き落とそうとしたのです。あるいは、足元の亀裂に気が付かない自分自身を救おうとして必死だった可能性も、ないとは言い切れませんが。
でも今は、そんなことを考えていた乾いた土壌は清らかな水で潤い、むしろ色々な夢を思い描き、それに向かって何ができるのか考え、挑戦してみることを楽しんでいます。そのように生きる人を見ると憧れるし、私も頑張ろうとすら思えます。
この心の変化が起きたのは、割と最近になってから……少なくとも20歳を過ぎてからでした。
あるとき、一緒に行動していた友人Aが、共通の知人Bについてこう言いました。
「知人Bの(趣味)で食べていこうってのが理解できない。そんなに頑張ることなのか?」、と。
この時に私は、何か到底言葉では表せないような、とても不思議な気持ちになりました。あろうことかほんの少しだけ、この友人の言葉を嫌悪しました。そして、自分を責められたような気にもなりました。
今なら分かります。その言葉は私にとってのシャドーだったのです。
抑圧された私の反面にして半面、同族嫌悪の源であるシャドーです。
この体験は、私に私の夢においての「正義なき者は正義を笑い、愛なき者は愛を笑う」な状態を脱するための力を与えました。このとき初めて私は、いろいろな者になりたがる自分を素直に認めました。できうる努力をすればいいじゃない、というポジティブな心持ちを手に入れました。
それからというもの、私は描きたいと思うまま絵を描き、勉強したいと思うままに英語を勉強しています。最近はまた文章を書きたい、ほんのちょっとだけ名の知れたブロガーになりたい、なんて思ったので、こうしてまた筆をとったというわけです。
今は本当に良い時代です。
ネットの海を見渡せば、そこにはたくさんに夢追い人がいます。
その夢追い人たちのYouTubeチャンネルやブログを見ると、応援したくなると同時に、自分も頑張ろう!という気持ちがメラメラと湧き上がってきます。この前などは、年の近いYouTuberが「20代のうちに何か一発当てたい気持ちがある」と言っていて、とてもうれしくなりました。ああ、24歳の夢追い人は、私だけじゃなかった!
今日も今日とて、顔も本名も知らない誰かの努力が、私を素敵な夢追い人にしてくれます。
そしてこのブログがいつか、夢追う誰かに力を与えられるといいなと思います。
およよ。今日はなんだか真面目な語り口調の日記になってしまいました(*_*;ちょっと恥ずかしいですね!!!!!